管 理 人 雑 記


                       下門区のお祭りで大切なもの「囃子」。これは誰しも間違いなくそう思うものであります。
                       先日、その囃子を12年続けている、子供祭囃子の頭になっている一人の少女(高校3年生)が書いた文章(小説? 随筆?)を目にする機会が
                      ありました。
                       そこには囃子担当としての覚悟とでもいうべきものが記されておりました。
                       管理人は祭を40年以上続けておりますが、囃子をやったことはありません。ちょうど囃子を覚えていく小学生の時代に「伊勢湾台風」の余波で
                      祭りが10年間中止になっておりました。再開されたときは高校生になっており、その時は山車に乗るより外で曳っぱる、騒ぐほうが楽しい年頃と
                      なっていたのであります。
                       だからということもないのですが、結局そのまま山車に乗ることはなく、元綱・前梶・後梶・後梶目付云々と歴任、祭りでは皆に顔も知られ、
                      そこそこの立場にはなりました。が、残念ながら「囃子」は”叩けば鳴るもの”、それも小学生が初期に習うような楽器しかできないのです。
                      そんな自分からすると笛が吹けるということはすごいことなのです。
                       外でやっている者には者なりの覚悟・気概があります。同じように中の人たちにもそれがあるのだということを改めて知らされました。
      
                                 そこで今回、中の人(囃子方)がこんなことを思っている同じタイミングに外の人達(自分個人)がどのような思いでいるのかを並列で記載してみようと思います。


花車(はなぐるま)
それははじまりの曲。祭りばやしの笛の音が響き渡った瞬間、辺りは緊張感を含んだ静けさに包まれる。


 午前10時を回ったころである。私は山車の中からちらりと外に目をやった。何人かの黒い足袋と、その足袋
の周りをくるくると回る桜の花びらが目に映った。深呼吸すると、微かな木の香り、なんともうまく言い表せな
いような、山車の独特な香りが鼻をかすめた。腕時計を確認すると、分針は少し前に確認した時よりも進んでい
る。そして私は深く息を吸い込んだ。
  私の込めた息が、音色となって広がる。それを合図に大太鼓が低く鳴り響き、私の音に合わせるように二、三
本の笛の音が重なる。武雄神社を目前に山車を止めている今、神社への曳き込みの直前に演奏するのは「花車」と
決まっている。この曲は祭りの中で重要な場面の寸前に演奏される。出だしの笛の音と、その後のほんの少しの間
そしてゆっくりと二回鳴らす大太鼓は聞いている者を、はっとさせる。数ある曲の中でも比較的短いこの曲は、も
うすぐ始まる本日一番の見せ場への心の準備として、ちょうどよい時間を与えてくれる。そして「花車」が終わる
と、いよいよ「車切り」が入る。
 
車切り(しゃぎり)
「特別な」曲。神社への曳き込み、曳き出し、主に曲がり角を勢い良いく進むときに用いられる。一定のリズムを
刻む他の曲に比べ、だんだんテンポの速くなっていく、最も盛り上がる曲である。組の人ならば例え囃子をあまり
覚えていない人であったとしても、ほとんどの人がこの曲だけは把握している。

 持ち替えた笛が、指に、先ほどまでよりも少し重みを掛ける。この曲だけは、この曲だけの「車切り笛」を使う。
 元の笛より太く、元の笛よりも多く息を吹き込む分、太くて力強い音を出すことが出来る。「花車」同様、出だし
の間のとり方には共通点がある。そして周りと呼吸を合わせ、・・・・・時が、動き始める。
 少しずつ少しずつ早くなっていく曲に合わせ、山車の前方から聞こえる若い衆の掛け声もいっそう熱を帯びたも
のとなる。そして掛け声の間隔が狭くなり、周りの熱気もピークに達した頃、私がじっと見つめていた一つの提灯
が上がる。それが合図だ。ミシ、と私のもたれている柱が微かに鳴ると同時に、山車から見えていた地面が動く。
後梶に構えた若い衆が、更に強く梶棒に身を寄せる。そして私はすこし開いた足をしっかりと床に着け、座ってい
る椅子と背の柱との位置を固定し前後左右に揺られる身をどうにか安定させる。そして、、溢れんばかりの観客の
見守る中、山車は大きく曲がって神社へと曳き込まれる。天井から桜の花びらが降って、肩にひらりと乗った。
それだけなら良かったのだが、続いて桜の枝やら顔を見せ始めた若葉やら、細かいゴミのような花びらか何かのく
ずやらが大量に、間髪入れずに頭に降ってきた。今年もまたやられたな、と思った。曲がり角に咲く桜に、大抵少
しだけ山車の頭を引っかけて、走りゆく山車と共に花びらを散らせてゆくのが我が組の魅せ方なのだと聞いたこと
がある。周りからは大きな歓声が上がる。しかし美しい外観とは裏腹に、その内側では大惨事が起こっているとい
うことを・・・・・いったいこの神社に訪れている人の何人が知っているだろうか。
 今日は本祭り、今まさに八幡車の入場の後に三台が曳き込まれ、六台すべての山車が一列に横に並んだところだ。
少し砂埃の立っている向こう側にはほぼ隙間のない人の波がせわしなく動いている。そして、ここでひとまず私た
ち囃子方は全員山車から降りる。並んだ山車の赤い幕が薄い色の空と楠木の緑によく映えている。さあ、からくり
人形の奉納が始まるようだ。 
  
米なり(こめなり)
神社への 奉納などの祝いの時、そしてからくり人形のはじめと中継ぎ、終わりに演奏する。